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郷土の偉人

町の先人たち

法然上人

誕生寺
誕生寺

会式法要
会式法要(25菩薩練供養)

浄土宗の宗祖法然上人は、今から約870年前の長承2(1133)年に現在の久米南町誕生寺の地(美作国久米南条郡稲岡庄)に生まれました。幼名は勢至丸。幼少にして父を失い、父の遺言で9歳の時出家します。13歳で比叡山に上がり本格的な勉学を初め、15歳で当時の仏教・学問のすべてを修得し戒壇院で戒を授かり、18歳で叡山黒谷の師の坊、叡空上人の膝元での求道を始め法然坊源空と改名し充実した修行の日々を送りました。

そして、43歳の時、阿弥陀仏の本願の真意を感得。真言、天台といった聖道門と教典や自力の修行を捨て、南無阿弥陀仏の念仏一筋に生きる浄土宗を開きます。その後、法然上人は26年間を過ごした比叡山を下り、苦しい修行に耐えることで救済が得られるという当時の仏教を貴族も武家も庶民も差別することのない国民大衆のものとしていきます。

30年間法然上人は布教伝導に尽くしますが承元元(1207)年讃岐の国に流罪にされます。建暦元(1211)年京都に召還されますが、翌年80歳で病没します。

上人の門下には高僧から遊女までさまざまな人が集まり、その生涯は「他力本願」の真骨頂をいくものでした。

河原 善右衛門

善石衛門邸
善右衛門邸

誕生寺池
誕生寺池

江戸時代の寛永8(1631)年に、現在の久米南町下弓削に生まれ、長じて大庄屋となった河原善右衛門は貧困にあえぐ農民たちを何とか救済したいと発念。干天の水不足、洪水など、天候に翻弄される郷土の農業改革を目指して、河川の改修、田畑の開墾・灌漑施設づくりなど、数々の大事業に私財を投じて取り組みました。晩年に奸計(誹謗中傷により処刑される)により不幸な最期を遂げましたが、その技術力と行動力には今も目をみはるものがあります。

当初藩主から善右衛門の供養は禁じられましたが、後に最大の灌漑事業となった誕生寺池の側には遺徳を偲ぶ記念碑が建立されています。

この誕生寺池をはじめ、善右衛門が築造した灌漑施設は今も久米南町各地の田畑を潤しています。

赤木 忠春

忠春神社
忠春神社

黒住教団の確立に功績があった赤木忠春は、美作国久米南条郡八出村(現津山市)の中庄屋の次男として生まれ、20歳で中籾村(現久米南町中籾)大庄屋赤木常五郎の養子になりました。忠春は眼病を患ったとき、叔父西村斎助から黒住宗忠の説教を聞かされて治癒し、宗忠の門人になりました。

宗忠から忠春の名を与えられた彼は、黒住宗忠の死後、二代目宗信を助けて布教を推進し、黒住教の京都地方の布教を担当するまでになりました。そして、攘夷の祈祷を通じて尊皇攘夷派の公卿たちと交わり、三条実美らの支持を受け神祇管領吉田家に対して「宗忠大明神号」下賜の運動を展開して許された功績は黒住宗史に燦然と輝きます。

しかし、その後、岡山の宗門から割派独立かとの疑いをもたれ、晩年に破門。故郷で不遇の最期を遂げました。しかし、忠春の運動で黒住教が地方的宗教から脱皮した事実は揺るぎなく、明治になって名誉は回復され、黒住教大教正に追賞されました。

福田 久治

福田久治
福田久治

耕地整理工事
耕地整理工事

久米南条郡南庄西村(現久米南町南庄)で生まれ、長じて赤坂小学校代用教員、稲岡南村会議員、養端教師などをつとめ、蛋種業も営んだ福田久治。彼は南庄北部耕地整理組合長に推されたのを機に耕地整理に執念を持ち始めます。

そして、大正13(1924)年9月、誕生寺耕地整理組合を設立して初代組合長に就任。その後わずか12年間でため池の新増設20カ所、開田100ヘクタール、開畑19ヘクタール、旧田の用水補給166ヘクタールなど、当時村単位では日本一といわれた一大農業土木事業をやり遂げました。

久治は確固とした地位にあるにもかかわらず、身に粗衣をまとうことを常としていたため、時に変人扱いされ「ボロ久」などと呼ばれることもありましたが、文字通り身命を賭して郷土のために取り組みました。

片山 潜

片山潜
片山 潜

片山潜記念館
片山潜記念館

久米南条郡羽出木村(現久米南町羽出木)の庄屋に生まれた片山潜は、明治5年に村にできた小学校(成立小)に入学しましたが、家計困窮のためすぐ農耕、炭焼きなどをして働きます。このためほぼ独学で勉強し、18歳で弓削至善小学校の助教になり、明治13年に岡山県師範学校に入学。この間、神目村(現久米南町神目中)の片山家の養子となりました。翌年上京、印刷工員として苦学し、明治17年に25歳で渡米。明治25年、アイオワ州グリンネル大学を卒業後、大学院に進みマスター・オブ・アーツとなりました。

その後、英国で社会事業、都市改良事業、消費組合制度などを見聞。さらにエール大学で学問を重ね、明治29年に帰国し、現早稲田大学教師に就任。幸徳秋水、安部磯雄らとともに社会主義研究会を組織し、日本における社会主義運動の先駆者となりました。

昭和34年に誕生記念碑、平成2年には記念館が完成。片山潜は遠くモスクワのクレムリンに眠っていますが、多くの人が今もこの地を訪れています。

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